士は己を知る者の為に死す
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最終更新日:2017/02/08
名言
壮士 11 『士は己を知る者の為に死す』
晋の畢陽の孫の豫譲は、はじめ范・中行氏に仕えていたが、さほど歓迎されなかったので、去って知伯の下に行ったところ、知伯は彼を寵遇した。韓・魏・趙の三晋が、知伯の土地を分け取ることとなったとき、趙襄子は最も知伯を恨み、知伯の頭蓋骨で酒器を作った。
豫譲は山中に逃げ隠れ、「ああ、男子は己を知ってくれる人のために命をささげ、女子を愛してくれる人のために化粧を整えるのだ。私は知氏の能遇に恩返ししよう」と言うと、姓名を変えて囚人に成り済まし、宮殿に入って便所の壁塗りをしながら、襄子を刺し殺す機
会をねらっていた。
襄子は、便所に行くと胸騒ぎがしたので、壁塗りをしている者を捕らえて尋問してみると、豫譲であった。塗りごてにやいばがつけてあって、「知伯のために仇を討つのだ」と言う。側近の者たちは殺そうとしたが、趙襄子は、「彼は義士である。私が慎重に避けておれば済むことだ。そのうえ、知伯は死後に跡継ぎもいないのに、その臣が仇討ちをしようとまでする。これこそ天下の賢人である」と言って、けっきょく釈放した。……
その後しばらくして、襄子が外出する機会があった。豫譲は妻子が必ず渡るはずの橋の下に身を潜めていた。妻子が橋の所まで来ると、馬が立ち上がった。襄子は「きっと豫譲がいるんだ」と言って、人をやって調べさせると、果たして豫譲だった。
こうなっては趙襄子も豫譲を面責した。「あなたは以前、范・中行氏に仕えていたのではないか。知伯が范・中行氏を滅ぼしたとき、あなたは仇を討とうとはしなかったばかりか、かえって礼物を奉って知伯に仕えた。その知伯はもう死んでいるのだ。それなのにあなたはどうして、いちずにどこまでも仇討ちをしようとするのか」。
豫譲は言った、「臣は范・中行氏に仕えました。范・中行氏は並の人間として私を処遇しました。それで、私は並の人間として報いました。知伯は国士として私を待遇しました。私はさればこそ国士として報いるのです」と。襄子は深く詠嘆し、涙を流しつつ、「ああ、豫譲よ、あなたが知伯のために報いるその名分はすでに成った。私があなたを許す心も、すでに十分に尽くした。あなたみずから決断なさるときだ。私はあなたをもう許さない」と言い、兵に取り囲ませた。
豫譲は言った、「臣は、『明主は人の節義を覆い隠すことなく、忠臣は死を惜しまずして名分を成し遂げる』と聞いております。君には以前、臣を寛容にもお許しくださって、天下に君の賢をたたえないものとてはありません。今日の事件については、臣はもとより誅戮に伏します。しかし、なにとぞ君の上衣を願い受けて、これに撃ちかかることをお許し願えれば、死んでもお恨みしません。所望することではないと心得つつ、あえて胸の内を披歴いたしました」と。
かくて、襄子はその節義に感じ、使役の者に上衣を持たせて豫譲に与えた。豫譲は剣を抜いて三たび跳躍し、天に呼びかけつつ襄子の上衣に撃ちかかり、「これで知伯への思返しができた」と言い、そのまま剣に身を伏せて死んだ。
死んだ日、趙の国の心ある人々は、事の次第を聞いてみな豫譲のために涙した。(216 趙上 襄子4)
近藤光男著『戦国策』講談社学術文庫より
前漢末の学者劉向が、皇帝の書庫にあった「国策」「国事」などの竹簡を編んで作った『戦国策』。三三編四八六章の長編を、人物編、術策編、弁説編の三編百章に再構成して平易に解説。陰謀が渦巻く戦国乱世を生き抜く巧智・奸智や説得の技法とは何か。「虎の威を借る狐」「漁夫の利」「先ず隗より始めよ」など故事名言の由来と古代中国の奥深い知恵を学ぶ。
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